(1)イメージの中のへんな日本ー1

 外国の映画やフィクションに描かれる日本や日本人は、当の日本人から見るとどことなく変で、現実とはずれたものであることがほとんどです。たとえばアメリカ人の目から見るとこう見えているのか、あるいは、日本とか日本人のイメージとはこういうものなのか、などと、感慨にふけりつつ、またあまりの勘違いに大笑いしながら見るという楽しみもあります。

 特に80年代以降、日本に関する情報は以前と比べ大量に、リアルタイムで流れるようになり、世界的な情報化も進んだため、日本の現状を正確に把握して反映した映像とか日本人のキャラクター作りも見られるようになりましたが、やはり古典的な日本に関するイメージの縛りというのもけっこう強く感じられることがあります。

 日本は世界中でも珍しい、血液型でいえばA型が多数派の社会なので、よその人から自分がどう見られているかを相当気にするし、それを知って相手の望む姿になろうとする傾向があるかと思います。もっとも、世界的には日本に関心を持って見ている人たちなど大していないのが現実なのですが・・・日本の現代文化に関心を持っているのは圧倒的にアジアの国の若者たちですが、なぜだか日本人はアジアの人の目はほとんど気にしていなくて、どちらかというと欧米人の目ばかり気にしているという傾向が感じられます。

 アメリカ映画は日本・日本人を扱ってきた歴史がまだしも長く、実際にいろいろと交流もあるので、「現実にはどこにもない、外国人のイメージの中にだけある見知らぬ国・日本」といったトンチンカンな日本像はさすがに最近はほとんど見かけなくなりましたが、細かいところは違っていることが多くて、やっぱり異次元の世界という感じがします。

 いつぞや、ビデオでドイツ映画「ベルリン忠臣蔵」という作品を見たことがありますが、これがクラシックなサムライ・フジヤマ・ゲイシャ・カミカゼ・セップクの異次元日本もどきのイメージそのもので、しかもそれをあくまでも大真面目にシリアスに、ドイツ的重厚さの映像で展開するものだから、俳優さんたちが真面目にやればやるほど笑えて仕方なかった、という記憶があります。

 

(2)外国映画の中の日本人男性

 さて、こちらでテーマにしたいと思っているのは、外国映画の中で日本人男性がどのように描かれているか、ということですが、私が今まで見たところでは、大きく分けて4つの典型的パターンがあると思います。一つはサムライで、歴史ものに出てくる、かの三船敏郎を代表とする武士のイメージです。たとえば安土桃山時代を背景にしたハリウッド映画の「将軍」あたりで武士が使われていましたが、秀吉と家康がまるで現代のサラリーマン同士のようにおじぎをして挨拶するなど、日本人から見ると時代考証無視もいいところの場面も多多見られました。

 もう一つは日本兵ですが、こちらは主として第二次大戦を扱った映画に出て来るものなので、昔のアメリカ映画におけるナチス・ドイツと同様、基本的に悪役です。特に、アジア映画における日本兵というのは、とりあえず悪役が必要で適当な人材がいなかったらこれにしておこう、ぐらいに引く手あまたの大人気?で、血も涙もない非人間的なサディスト、といった悪役として分かりやすいキャラクター設定のことがほとんどでした。割と最近の中国映画の「紅いコーリャン」などでも、伝説の中の悪役、といった扱い。珍しいものでは、スピルバーグ映画で大戦中の上海を舞台にした「太陽の帝国」で、主人公のイギリス人少年の憧れの存在として零戦に乗った日本人飛行士、というキャラクターがありました。礼儀正しくおとなしい日本人、日本兵がアジア映画で出て来るのを見たのは、台湾のホウ・シャオシェン監督の「悲情城市」あたりでしょうか。

 3つめのカテゴリーは「ヤクザ」、ジャパニーズ・マフィアです。これについては後で詳しく述べることにしますが、代表的な俳優としてはやはり高倉健が国際的にも知られるヤクザのイメージキャラクターでしょう。

 サムライ、ヤクザは極めて日本人としての特徴を分かりやすく表現するのに適当なキャラなのでしょう。たとえば東洋系男性一般にアメリカ映画が期待する役割として、精神的な要素の強い、神秘的な東洋武術家、というものがありますが、カラテや少林寺拳法、テコンドー、忍術に至るまで、どこか超能力的に受け取られているふしもあります。アクション映画にはひっぱりだこの東洋系武術家キャラは、日本人の場合にはサムライ、ヤクザに通じる系譜かと見られますので、ここではサムライのカテゴリーとして考えることにします。

 最後のカテゴリーは、最も現代の日本人男性に近いその他のキャラクターで、サラリーマンなど普通のお人好しの日本人男性一般、といったところでしょうか。「ダイ・ハード2」で、ビルのオーナーの金持ち役が日本人男性でしたが、存在感が薄くいかにも人が良さそうで、最初にテロリストに襲われて犠牲になるという気の毒すぎる役でした。そういった、善良な被害者役で最初だけちょっと出て来る、といった日本人の使われ方も80年代後半以降からはちょくちょく見かけられるようになりました。



 

 

 

 

(3)イメージの中のへんな日本

 さて、外国映画の中で日本人男性が演じる典型的な役のうち、サムライ、日本兵は歴史的なもので現在は既に存在しません。いわゆるヤクザの実態も、現代においては映画に出てくるようなイメージとは大きく変質している、というより、もともと映画のイメージと現実とは全く違うものなのですが・・・

 まあ、そもそも、映画やフィクションと現実との関係は、現実を正確に映し記録することが目的ではなく、作り手やその作り手が観客として想定する層が「こう見たい」あるいは、「こうイメージしている」「こうあってほしい」という姿を映像や言葉で描写しドラマトゥルギーを強化することが目的になっています。ですから、見ていてどうしても退屈な現実そのものとか、数字統計、記録写真などとは違ったもので、観客の関心をひく程度には誇張されたり省略されたりしているのは当然のこと。ただ、外国映画の場合には、その想定された観客が外国人で、その外国人の心の目で見た日本が映し出されている映画の映像を見ると、当の日本人としてはさすがに現実を知っているだけにリアリティを感じることができず、「ここはいったいどこ?」となってしまうのも自然なことでしょう。

 ですから、「ここ間違ってるぞー」「こんなの日本にありませんよ!」などと、いちいちクレームをつけるような不粋なことをしたいとは思っていないのです。ただ、よく知らない遠くに住んでいる人たちって、われわれのことをこういう風に思ってるんだなあ、とか、日本のことなんて全然関心なくて漫画的解釈していて十分生活していけるんだなあ、などと、それはお互い様なことなので、誤解を楽しむ、というまた別の楽しみ方がこういう場合には日本人には用意されているわけです。現代の日本人の多くは、「こんなことも知らないなんて」と、知らないことを恥じたり、そういう人をバカにする風潮がありますが、当の自分たちのこともこんなにも知られていない、ということについて、外国人に対してはバカにできず、むしろ相手の関心をひいていないことを自分で恥じたりする傾向がまたあるのも不思議なことです。

 

(4)イメージの中のへんな日本ー3

 欧米の映画で日本を扱っているものの中で、日本のものと他のアジア諸国、中国や韓国、極端な場合には東南アジア、ポリネシアあたりの事象までが混じってしまっている、という場合も、特にアジアに関する情報の少なかった70年代以前の映画では珍しくありませんでした。実際に、欧米の普通の人と話していると、外見からも日本人、中国人、韓国人は区別がつかない、とよく聞きます。それは私たちのほとんどが、特にアフリカ系の人たちが部族までは外見から区別がつかないとか、アメリカ人とイギリス人の外見からの区別がすぐにはつきにくい、というのと同様でしょう。

 そこで、キャラクター設定を外見上はっきり見分けをつけさせるために有効な「これぞ日本人男性!」という典型が、たとえばサムライ路線ということになるのでしょう。そうでないと、あちらの大衆的観客の目からは、アジア人は全部同じに見えてしまって、風景に溶け込んでしまうから、ということですね。そんないかにもの典型的日本人など、現実の日本には既に存在しない、という事実はこの場合関係がないわけです。優先すべきは、いかに印象的で観客の思い入れができるキャラクター設定をして、ドラマ性をひきたたせるか、ということなのですから。「現代の日本について正確に記録し伝えます」などと良心的な目的を持って作る記録映画もあるかもしれませんが、そういうものはどうしても、日本について研究している玄人の人など以外には退屈でつまらない、となってしまうのは必定です。

 それでも、80年代以降、現実の日本人が海外で活躍したりして、海外の普通の生活者たちの目にも触れる機会が多くなり、ニュースなどのリアルタイム映像で日本の都会の風景などが時々流されるようになってくれば、海外の大衆の日本・日本人イメージもより現実に近くなってきて、あまりにも突飛なキャラクター設定は却ってリアリティを失ってくる。特にアメリカ映画の中での日本人キャラが現実の日本人にだんだん近付いてきたのにはそういう事情があると思います。

 

(5)イメージの中のへんな日本ー4

 さて、「オリエンタル」「エキゾチック」という古典的な日本や東洋のごった煮イメージは、現実の現代アジアの事情が情報として広がるうちにリアリティを失ってそのままでは使えなくなりましたが、いわゆるクラシックな「エキゾチック・ジャパン」のイメージは、たとえばビジュアルのデザインそのものとして切り離して見た場合には、それなりの捨てがたい魅力があるのです。事実とは違うから間違っている、それは大昔の認識だ、と、変にきまじめな人たちがクレームをつけてくるので現代映画ではちょっと使えなくなりましたが・・・・

 そういう昔懐かしい「エキゾチック・オリエンタル」のビジュアルデザインが有効に使われていたのは、80年代以降の映画では、たとえば「ブレード・ランナー」のような近未来を描くB級SF映画でした。未来の話にビジュアルデザインとして用いているのだから、荒唐無稽だろうが現実とずれた日本や東洋だろうが構わないではないか、という目のつけどころです。「ブレード・ランナー」はかのサイバーパンクSFの先駆者フィリップ・K・ディックで、彼自身、SF小説の中で、近未来の日本を扱った「城の上の男」という作品があるほどですから日本にはかなり関心を持っていたようです。

 その後80年代アメリカSF界の主流になってしまったサイバーパンクの作家たちのうちでも、リーダー格のウィリアム・ギプスンなどは、やはり相当の日本通です。1949年生まれでベトナム戦争の徴兵逃れでカナダに亡命したというギプスンこそが、「サイバースペース」という言葉と概念の生みの親。彼ぐらいの世代となると、古臭い日本のイメージの縛りからはまったく自由で、たとえばあやしい半導体の秘密工場や闇マーケットをアジア的混沌の近未来都市・チバ・シティに設定したりするというセンス・・・・『ニューロマンサー』から続くサイバースペースシリーズの中には、「ヤクザ」の父親を持つ日本の美少女クミコを主人公にした作品があるほどです。

(6)ブラック・レインー1

 『ブレードランナー』で背景となっていた近未来無国籍都市のオリエンタルな風景は、アメリカ人の若くて先鋭的なセンスの人たちにとっては「おっしゃれー」なものとして当時映ったようで、サイバーパンク的近未来都市の姿としてオリエンタルなビジュアル要素を加えることがその後よく見られるようになりました。欧米の都市のように都市計画がしっかりしていない、古いものと新しいもの、伝統的なアジアと西欧的近代的なものとがごった煮的に混在する日本の大都市の風景は、カオス的な雰囲気で外国人にとってはインパクトが強く興味深いもののようです。

 サイバーパンクSFの描く近未来映像の重要なファクターとして、「混沌」と「ある種の退廃」「あやしげな雰囲気」がありますが、オリエンタル、エキゾチックはそれを表現するのに最適な道具だったのでしょう。また、現実として、21世紀には中国をはじめとするアジア諸国の経済的発展が誰にでも予想できることなので、近未来を描くときにアジア的要素を抜かしてはリアリティがない、ということもあったかもしれません。

 さて、ここでようやく、「ブラック・レイン」に話が到達します。リドリー・スコット監督は、NYと日本を舞台にしたジャパニーズ・マフィアとNY警察、日本警察の闘争を描くアクションものを企画した時、背景とする日本ロケの都市風景としては、「ブレードランナー」に出ていたような混沌としたアジア的風景を想定したということです。彼が実際に日本に来てロケの風景を探した際、東京はどうも近代化西欧化されすぎ、整備されすぎた雰囲気で風景に有機的な匂いがしなかったので、大阪を選んだ、ということを雑誌のインタビューで話していました。アジア的な魚市場、マーケットの雑踏、道頓堀のそれぞれに存在を主張するネオンや張りぼての広告などなど、まさしく「ブレードランナー」的近未来無国籍都市の風景そのものです。

(7)ブラック・レインー2

 「ブラック・レイン」における松田優作の演じたジャパニーズ・マフィア・サトーは、アメリカ映画で日本人が演じた悪役キャラとして、たぶん最高峰といえるのではないかと私は思っています。無表情で口数が少なく、感情や考えが読めない、無気味な存在感のある東洋系男性の悪役・・それは無口な東洋系武道家やサムライの系譜をひいていながら、スタイリッシュなダークスーツやコート姿が実に現代的に格好良くセクシーで、オリエンタルらしい繊細さも合わせ持っていて秀逸でした。

 また、静かでクール、無表情な彼が、ここぞという時に見せる凶暴な表情は、普段の静けさとのギャップが大きく、これが「殺気」というものか、と、改めて気付かされたのでした。存在だけであたりを払う、「殺気」を漂わせることのできる日本人の俳優さんが昨今は少なくなってきました。松田優作はむしろ、韓国映画のスター俳優であるアン・ソンギに雰囲気が似ているところがありました。ふだんはぬぼっとしていて妙に三枚目風のユーモラスな雰囲気もあるのに、ここという時の凶暴さ、殺気がものすごいのです。

 やはり東洋系であるニューヨークのチャイニーズ・マフィアを扱った「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」という先行作品がありましたが、こちらの悪役でその後大スターになったジョン・ローンの場合は、英語のセリフも多く、考えていることも感情も割と伝わる役であったので、主役・ライバル役のミッキー・ロークが癖が強く観客の反感を呼びやすいタイプだったのも幸いし、より観客の感情移入のできるキャラクターになっていました。しかし、日本の若手ヤクザ・サトーの場合には、日本語のセリフさえ少なく、彼自身が日本のヤクザ組織の中でも異端的な存在で、大ボスたちにけむたがられているという設定であり、よけいに不気味な気配が漂っていました。

 彼を追いかけて日本に来るアメリカ人刑事がマイケル・ダグラスで、日本側の刑事役が日本映画におけるミスター・仁侠の高倉健、この二人の友情話も並行して進んでいくので、確かに大阪でありながら細部がどこかおかしなカッコつきの「日本」も、二人の「いいひと」キャラぶりで微笑ましく感じられるぐらい・・・・

 松田優作はこの「ブラック・レイン」の鬼気迫る演技をほとんど遺作のようにして、まだ30代の若さでその後すぐに旅だってしまいましたが、彼も生きていればジョン・ローンのようにハリウッドの主役を張れるような俳優になれたのかもしれない、などと、死児の年を数えるようなことをしてしまうことがあります。彼の役名「サトー」は、日本人に最も普遍的な名前としてつけられたもので、むしろ匿名に近いのですが、彼のあの黒ずくめの殺気漂う姿ばかりは、強烈な存在感を持って、大阪の風景を思い出すたびにありありと目の前に浮かんでくるのです。



 



            

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