(1)エイリアンー1

 エイリアンAlien、とは、そもそも英語で異星人というだけでなく、異邦人のことも表していて、つまり外から来た存在のことです。ハリウッド映画のエイリアン・シリーズで、日本で定着した「エイリアン」のイメージは、怖くてぶきみな宇宙人、モンスターの一種なのですが、アメリカ人が使うエイリアンという言葉はもっと普通名詞的で、外国人一般のことも含んでいる。そうすると、これらの映画の含むメタファーは、日本人が受け取るものとアメリカ人が受け取るものとはいくらかずれがあるのではないかと思います。

 60年代、70年代においては、「インベーダー」という言葉が普遍的でした。SF映画やドラマ、漫画などなどの中で、宇宙人は何らかの悪意を持って(それはほとんど「地球を侵略しようとしている」という説明だけでことたりるのですが)われわれの日常生活の中に入り込んできているので、最初から敵であるわけです。人間的な感情や感覚を持たず、考えを知ることができず、コミュニケーションができない、でもわれわれに対する悪意(があるらしいこと)だけは分かる、というぶきみな存在でした。

 一方で、「E.T.」に代表されるような、侵略者ではない「善良な」宇宙人と地球人との友情をテーマにした宇宙人もののパターンもありました。こういった善玉宇宙人の場合には、キャラクター的には無垢で無力で孤独、人々の好奇の目や金もうけに利用しようとする大人たちから守り隠してあげたくなる存在です。ルックス的にも人間から見て可愛く見えたり、サイズが小さかったり、人間とほとんど変わらない外見で、言葉が通じたり、言葉は分からなくても気持ちが通じる相手でした。

 悪玉宇宙人、つまりはインベーダーなのですが、となるとルックス的にはやはり相当グロで怖い。「エイリアン」シリーズで作られた怪物エイリアンのデザインは、かのギーガーの作であることは周知の通り、凄みのある美しいとさえいえるほどの形態の完成度を見せています。



 

 
 

(2)エイリアンー2

 エイリアン・シリーズは1979年から18年間のうちに4作が作られ、宇宙船の女性士官リプリーが主人公になっています。これがシガーニー・ウィーバーの当たり役であることも周知の事実。「エイリアン1」は、宇宙船内という閉ざされた空間の中に侵入した、恐ろしい異物であるエイリアンとの命がけの戦いを描いています。

 この場合、エイリアンには特に知性があるかどうかということは分からず、従って地球侵略などといった意図があるかどうかも分からず、単に人間の身体に入り込んでその中で育ち、やがてその人間の身体を突き破って出現する、という巨大な昆虫に似た生物なので、ともかく問答無用で怖い。エイリアンに対してはいささかも共感や同情の余地はなく、いかにその侵入を食い止め、逃げのびられるか、が人間にできる全てのことです。

 特に、最初の作品ではこのエイリアンは初出だったので、その生態も姿も未知のものであり、観客にとっても、また登場人物たちにとっても、次に何が起きるか、エイリアンが次にどんな姿でどこに現れるのか、手に汗握る展開でした。やがて全貌を現したエイリアンは、二本足で歩く昆虫のような奇怪な姿で、ただ一人生き残ったリプリーを追い詰める。彼女は恐ろしさに震えながら、必死の思いでエイリアンを宇宙空間に追い出し、ひとり救命艇に乗り込んで逃亡を果たす・・・彼女の細い身体がいかにも頼りなげに心細く見え、宇宙にひとり頼るものもなく怪物との戦いをしなければならない緊張感がひしひしと伝わってきたものでした。宇宙船の中、という密室の閉そく感も、よけいに最後の脱出の瞬間の解放感を増したと思います。

(3)遊星からの物体X

 宇宙からの未知なる侵入者としての「宇宙人」像は、70年代後半以降になると、地球侵略などといった分かりやすい目的のある人間型のものでなく、このエイリアンのように、ともかく不可解な未知の生命体、といったかたちになってきます。特に、人間の身体に入り込む、人間そのものを支配してしまうタイプのものでは、たとえば82年のジョン・カーペンター監督の「遊星からの物体X」などは極め付けでした。

 何らかの悪い意図を持った宇宙人が人間に化けていたり、あるいは身近な肉親の誰かに取り憑いていたり、といった設定は、SFものでもホラーものでも古典的なパターンですが、「遊星からの物体X」" The Thing" はその使い古され、ありふれた設定を極限まで追及・展開したもの。物体Xはそもそも何なのか、結局最後までよく分からなかったところもリアリティがありました。

 南極の基地に入り込んだ、たぶん異星からやってきた生命体と思われる無気味な何か"The Thing" は、いつの間にか基地のメンバーの誰かの身体に入り込んでその人格を支配してしまう。だから、誰が人間で誰がThe Thing であるのか、主人公にも分からないのです。もしかしたら、その主人公でさえも既に「それ」になりきってしまっているのかもしれません。

 物体Xは、いきなりその宿主となった人間や動物の身体から奇怪な姿を現して、しかもその形態がひたすらおぞましく気味悪いのに、決まった形を持たないという特徴があります。宿主がなくては自分の姿を現すことができないという、特殊な生命体なので、よけいに実体がはっきりしない。しかもふだんは宿主の人間や動物の姿なので、見分けがつかないわけです。

 この物体Xが人類全体に広がることを食いとめるため、南極の基地隊員たちは自分たちが犠牲になる決心をし、この生命体に関する全ての記録も抹消されるのですが・・・・観客の目に重なる主人公の視点も、最後には曖昧になってしまうため、もしかしたらこれは、厳しい南極の寒気と氷に閉ざされた基地の男たちの幻覚だったのかもしれない、とも見られます。「遊星からの物体X」は、終わりのない悪夢を描くことでは定評のあるジョン・カーペンターの、隠れた傑作の一つではないでしょうか。



 

(4)エイリアンー3

 エイリアン・シリーズは、1979年第一作のリドリー・スコット監督作品から、第四作(1997年)ジャン・ピエール・ジュネ監督作品まで、主人公のシガーニー・ウィーバー演じるリプリーとエイリアン以外は監督も登場人物も毎回違っていて、それぞれ特徴のある作品になっています。

 シリーズ第二作めの「エイリアン2」が公開されたのは1986年で、第一作からは7年が経過していますが、こちらは監督が「ターミネーター」のジェイムズ・キャメロンということで、アクションシーンの多い戦争ものに近いストーリーになっていました。第一作では初出で未知のものが正体を現していくところにスリルがあったエイリアンですが、第2作では当然ながら既知のものとして扱われ、しかも大集団として出てきます。エイリアンの生態は既に情報として分かっていて、対処の仕方も分かるので、その意味では第一作のように息詰まる怖さはありません。

 人類が作った宇宙のコロニーが、エイリアンたちに襲われ壊滅するという事件があり、そのコロニーの人たちを救出に行く部隊に、最初にエイリアンに遭遇した唯一の生存者であるリプリーが事情通として協力するため参加する、という設定で、エイリアンたちとの戦いははっきり戦争と同じです。

 キャメロン監督好みの母性愛のために強くなる女性像がここでも描かれ、「ターミネーター」でヒロインを守り恋人ともなるカイル役を演じた同じ俳優が、ここでやはりリプリーの最大のガード役となります。生存者の少女を守るリプリーと、卵を焼かれ怒り狂うエイリアンの母親との戦いが最後の見せ場になり、息をつかせぬスピード感あふれた展開はまさしくキャメロンふうのアクション映画そのもの。エイリアンたちを打ち破って脱出するラストシーンは、シリーズ4作のうちでも最も爽快感のあるエンディングでした。

(5)エイリアンー4

 「エイリアン3」は、デヴィッド・フィンチャー監督による1992年の作品。「エイリアン2」からは6年、第一作からは13年の歳月が流れています。「エイリアン2」のラストシーンからストーリーを引き継いで、エイリアンの星から脱出した宇宙船はそのままとある監獄惑星に不時着、またしてもリプリーのみが生存者としてその惑星で目覚める、という設定です。

 閉ざされた監獄惑星にいるのは、殺人など凶悪犯罪をおかした囚人の男性たちばかり。その中で、リプリーはついに自分の体内にエイリアンが入り込んでいることに気付きます。それまで自分とは切り離された他者そのものだった、敵であるエイリアンが、まさに胎児のごとく自らの肉体と一体化しているという事実。

 他の囚人たちと同様にスキンヘッドのリプリーは一貫して見た目中性的なのですが、逆に女性性がある面際立って見えるのも、エイリアン・シリーズとシガーニー・ウィーバーという女優の持ち味の、たぶん意図せぬ効果ではないでしょうか。リプリーがシリーズ中唯一恋人と愛の抱擁シーンを見せるのもこの第3作なのです。エイリアンが体内に入り込むことにより、恐怖のみでなく、異質なものとの身体感覚レベルでの融合の感覚、といったものがリアリティを持つのは、やはり主人公リプリーを女性として設定したからでもあると思うのです。

 閉鎖的な空間の中での救いのない戦いと自己犠牲というテーマは、異様な迫力に満ちていて、どこか宗教的でさえありました。ただ、ここまで行ってしまうと、何やらものすごい迫力に圧倒されはするものの、共感しきれずついて行けない観客も多かったのではないでしょうか。「エイリアン3」はシリーズのうちでは賛否両論のある作品です。

 

(6)エイリアンー5

 1997年公開の「エイリアン4」は、フランス人監督ジャン・ピエール・ジュネの作品であるせいか、ビジュアル的には最も美しいエイリアンが登場します。また、リプリーとエイリアンの関係も、どこか官能的でさえある、すでにして異質とはいえないもの同士に変化しています。第一作、第二作と、はっきりと区別された外部の敵であったエイリアンが、一度体内に入り込んで融合を果たした後では、リプリーにとっては親しい血縁のようなものとなる。

 エイリアンの幼生も、リプリーを母親と見なして慕う様子を見せ、お互いの間に情愛が通うようになっています。美しく見えるエイリアンとの交感のシーンには、ある種のエロティックな雰囲気が漂っています。もはや、彼らは敵ではなく、戦うことはありません。

 エイリアン1からエイリアン4までの、1979年から1997年という18年間の時間の流れを顧みたときに、時代の変化や時代の意識の変化が微妙にエイリアン・シリーズにも反映しているように思うのは読み過ぎでしょうか。

 60年代、70年代にインベーダー、侵略者という概念がそれなりのリアリティを持っていたのは、冷戦時代という時代背景があってこそのものだったのではないでしょうか。「侵略」という拡張的な目的が宇宙人からなくなったのは、冷戦構造の崩壊という時代の変化により、悪役の目的としてそれがリアリティを失ったからで、むしろ内部にこそ敵がいて、やがて葛藤を経たのちに融合へ向かう、というエイリアンの設定とストーリーの流れは、その後の「宇宙人」、外からの異物であるエイリアンと人間との関係の変化のメタファーともなっているように感じるのです。まあ、こんな読み方もひとつの遊戯にすぎませんけれども。



            

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