つげ義春 新潮文庫 新潮社

(1)ねじ式

 つげ義春の漫画に出てくる風景は、今となっては既に失われてしまった、記憶の奥深くに眠っている何かを強烈に呼び覚ます喚起力があります。たとえば多摩川沿いの道だとか、山奥の寂れた温泉宿、房総の港町、などなど、行ったこともない場所なのに、匂いや風の感覚まで、確かに体感される空気がたちのぼってくる。

 それは、昭和30年代の空気をものごころつく以前に体感し、皮膚で覚えている私たちの世代だけに言えることなのか、それとも、今の10代や20代の日本人にも感じられることなのかは分からないのですが・・・・あるいは、ひと世代前の父母の記憶や感覚までもが、同じ家で肌を接しながら生活するうちにいつのまにかこちらに反映し、あたかも自分の体験したことのようにイメージが湧いてくるのか・・・・この感覚は理屈では説明できず、どうにも不思議でならないことがあります。

 港町の潮の香り、ものさびた街並、夜釣りの船の灯を水平線近くに見ながら波の音を聞いていた、幼児期のある夜の記憶が、たとえば「ねじ式」に出てくる、幻想の入り交じったリアルな町並の風景とオーバーラップしてきて、夜の闇に含まれる、なまあたたかく湿気をふくんだような、ここちのよい怖さ、といったものまで思い出されてしまうのです。

 

(2)あかい花

 つげ義春の漫画の世界に特徴的なほのぐらい湿潤性、ともいうべきものが、もしかしたら古い日本的なもの、郷愁の源泉なのかもしれません。つげ義春の漫画を、私たちよりも若い世代の中には毛嫌いする向きもあります。また、私たちの年代だと、すんなり受け入れられはするけれども、若い人相手にはうっかり好きとは言えない、というような照れくささもどこかにあります。

 私の妹も漫画好きのつげ漫画嫌いなのですが、よく理由を聞いてみると、作品そのものが嫌いというのではなく、つげ義春のファンが「うざったい」のだそうです。つまり、熱狂的すぎて他の人にまで無条件に高い評価を強制し、そうでなければ漫画が分からないやつ、と言わんばかりの押し付けがましさを感じるから、ということで、ちょっと阪神はいいんだけどファンがねえ、というのに似ているような感じがします(笑) 私もその点に関しては確かに一理あるかと思っています。あまり強引にすすめられすぎて却って喰わずぎらいにさせられる、といったところがつげ義春の作品にはあるように思います。それは本人の責任とは言いがたいのですが・・・

 彼の作品に無意識に含まれている湿度の高さは、私たちが古い、暗い、びんぼーくさくてうざい、と、どこかで捨てて来た、あるいは、見ないようにしている古いアジア的、発展途上国的(昭和30年代ごろまで、日本は確かに発展途上国でありました)日本を象徴するような何かなのかもしれません。自分の中にもあるそういった湿潤性を、かっこわるいものとして、気恥ずかしいものとして、隠すようにしてきた時期が、私にもあったような気がします。人前でうっかり好きとは言えないつげ義春・・・しかしそれゆえに却って、たとえば疲れた時、ふと彼の漫画をめくって見ると、その荒涼とした風景や、さびしく置き去られた眠ったような町並に、着物や割烹着の中年女や老婆の姿に、ぞくぞくするような郷愁と心地よさを感じてしまうのはなぜなのでしょうか?

(3)ゲンセンカン主人

 つげ義春の漫画に出てくるものの中には、夏祭りの縁日に見られるような、素朴でストレートなインパクトのある、古臭いけれどもいとおしい、キッチュなおもちゃ類がよく見られます。金太郎飴、天狗のお面、駄菓子の類、めくるめく妖しいお化け屋敷の光景・・・わい雑な生活感がありながら、非日常的な祭りの夜の記憶。

 幼児の頃、隣家の壁にかけられた天狗のお面やパプアニューギニアの精霊のお面の恐ろしかったこと・・・・母の背中に隠れて、お面の視線を震えながら避けていた、あの時の恐怖感を、ありありと思い出したのは、「ゲンセンカン主人」のラストシーンでした。

 しっぽりとした、ほのぐらい闇の世界は、母の肌から伝わる体温をも思い起こさせ、あるいは子宮内の感じだったのかもしれない、と思います。そんな記憶があるはずもないのですが、怖いけれども奇妙にここちよい、安らぎのある場所なのでした。

 つげ義春の漫画を読んでいると、そんな幼児期のむき出しの無防備な五感が、吹きさらしの現実世界の風に堪え難い痛みを覚え、必死に母の胎内に隠れようとしているような、そういう痛ましさを感じたりもするのですが、ずっと忘れていた何かが呼び覚まされることに変わりはありません。

 やはり温泉宿を舞台にしたある作品の中で、主人公が妻と共に若い頃滞在したことのある温泉町を再訪し、昔なじみのあった女性に再会する。妻に隠れて彼女と二人きりになった彼が、彼女の肌に触れ、
「なつかしかったので・・・」
 と言う場面がありましたが、そういうエロスの感覚も、やはり母胎への懐かしさと通じているのではないでしょうか。

 つげ義春の作品の世界にいつも湿潤性が、そして郷愁が感じられるのは、日本の風土一般だけについてだけでなく、遠い胎内の記憶をも反映しているからではないか、とも思ったりするのです。



 

 

(4)無能の人

 つげ義春の漫画には、今でいうダメ男がよく出てきます。「無能の人」などはその典型なのですが、何とか生計をたてようとしながら、どこか発想が現実からずれていて、本人は必死なのに却ってのどかな感じさえしてきてしまう。本人には申し訳ないのだけれども、その無能ぶりというのがむしろ見ていて癒される感じがしてきてしまうのです。なぜか、うらやましささえ感じることもあります。

 自分自身がダメな人間だからということもあると思いますが、彼らの無能者としての日常を見ていると、ものすごく共感を覚えてしまう。「みんなやってることでしょう」「普通ならできるはずだ」という、普通ができない、普通の人の生きている時間とは別の時間の流れを生きている人の、淡々とした、本人は悟りきれず苦悩してはいるけれどもそれなりに安定した日々が不思議と懐かしい。

 ぼおっとして河原の石を眺め、石ころを拾って道ばたに座り込んで日がな一日石売りをする。お客さんは全然来ない、時々ふと思い出して焦るけれどもやはりぼおっと他のことを考えていたりする。こんな風に時間を過ごしていても生きていけるし、人の人情に触れることができ、女性との関わりもある。ダメな生き方というのは本当に不幸なんだろうか、と、アブないかもしれない発想がつい頭をもたげてきてしまいます。

 幸不幸などというものは、結局よそ目からは分からないことじゃないか、と、当たり前ですが思います。そもそも、そんなことを決めたり判断することにどれほどの意味があるでしょうか。どんな境遇であれ、どんな人生であれ、本人にとっては幸福と不幸が少しずつ混ざっていて、それこそ「普通」なのではないかと・・・。

 本来日常なんて退屈でつまらないものですから、ぼおっと雲の流れや青空を見上げ、星を見て時間を過ごし、変人や怠け者扱いされる人は、他の人と同じような時間の使い方ができないだけで、それをそれなりに放っておいてくれたおおらかな時代を感じさせるところに、つげ義春の漫画の懐かしさがある、と、だいぶ後の世代に属する私には思えるのですが・・・もちろん、そのおおらかな時代には、今とは違った厳しさもあったことも、漫画からは思い出されますが。



            

©2001-2002 chatran