つげ義春の漫画に出てくる風景は、今となっては既に失われてしまった、記憶の奥深くに眠っている何かを強烈に呼び覚ます喚起力があります。たとえば多摩川沿いの道だとか、山奥の寂れた温泉宿、房総の港町、などなど、行ったこともない場所なのに、匂いや風の感覚まで、確かに体感される空気がたちのぼってくる。
それは、昭和30年代の空気をものごころつく以前に体感し、皮膚で覚えている私たちの世代だけに言えることなのか、それとも、今の10代や20代の日本人にも感じられることなのかは分からないのですが・・・・あるいは、ひと世代前の父母の記憶や感覚までもが、同じ家で肌を接しながら生活するうちにいつのまにかこちらに反映し、あたかも自分の体験したことのようにイメージが湧いてくるのか・・・・この感覚は理屈では説明できず、どうにも不思議でならないことがあります。
港町の潮の香り、ものさびた街並、夜釣りの船の灯を水平線近くに見ながら波の音を聞いていた、幼児期のある夜の記憶が、たとえば「ねじ式」に出てくる、幻想の入り交じったリアルな町並の風景とオーバーラップしてきて、夜の闇に含まれる、なまあたたかく湿気をふくんだような、ここちのよい怖さ、といったものまで思い出されてしまうのです。
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