佐藤史生 小学館文庫 小学館

(1)夢みる惑星ー1

 佐藤史生という漫画家の絵と名前を見た時、この人は女性だろうか、男性だろうか、と疑問でした。吉田秋生、萩尾望都についてもそうで、一見性別の分からない名前の漫画家の場合、私から見て個性的で面白い作風の人ばかりだったので期待してしまいました。意識的に中性的なペンネームをつけていた人もいたようで、あまり少女漫画の枠にこだわらない作風をめざしていたからだということ。絵柄もダイナミックだったり(悪くすると荒っぽい場合も・・・)、少年漫画風だったり、「男の子」的要素が強い傾向がありました。佐藤史生の絵も、特に初期の頃は相当硬さがあって、絵柄が好みに合わない、という人にはあまり読まれていませんでした。ストーリーも複雑で難解、哲学・宗教用語や今でいうIT用語まで出てくるので、一般的には読みにくくとっつきが悪かったようです。

 佐藤史生の場合、ペンネームの由来は、名前を考えていた時にたまたま目の前のテーブルを見たら、砂糖と塩が置いてあったためだということ。めんどくさかったので「さとう・しお」に適当に漢字をあてて、そのまま使ってしまった、と、どこかの対談で彼女が語っていました。漫画の難解さと大きなギャップのあるこのすっとぼけたはずしようも、いかにも感覚が24年組(団塊世代)の次の世代(昭和31年生まれ)らしい分かりやすさです。

 70年代後半に主として少女コミックや花とゆめ、LaLaあたりに描いていた一部のマニアックな漫画家たちの中には、このように、絵柄は硬かったり技術的にはいまひとつでも、ストーリーやテーマがものすごく良くて、読むほどに味が出てきて繰り返し読みたくなる、という作家が何人もいました。「はみだしっ子」シリーズの作者・三原順などもその典型で、彼女は絵が硬くてうまくなかったため、何十回となく新人賞に落ちたとのこと。今ならばまずプロデビューはできなかったと思われるので、彼女の作品をリアルタイムで商業誌で読むことのできた私たちは幸せな読者というべきかと思います(三原順はその後若くして亡くなってしまいました)。

 佐藤史生は、最初は萩尾望都のファンの一人として彼女の家に入り浸っていた常連で、居候に近くなり、いつも一人で部屋の隅で難解な本を読んでいたけれども、やがて自分でも漫画を描くようになった、と萩尾望都あたりがどこかで語っていたような・・・・ともかく、もともとは活字的な人で、絵の方は後から修業するようになった感じです。アイディアやテーマ、それにキャラクターが実にいいのに、絵の技術がついていかなくてもどかしい、という雰囲気が伝わってくる彼女の作品は、読みにくさがまた魅力でもあり、難解なネームとへたうまに近い絵のはざまから意味を読み取るのが楽しみでもあって、つい何でも一生懸命読んだり見たりしてしまう私のようなタイプの読者には有り難い作家でありました。

 

 

 

 

(2)金星樹

 「金星樹」('78)は、佐藤史生の最も得意とするSFファンタジーに恋愛ものを合わせた作品で、よくあるタイム・パラドックスもののラブストーリーのうちでも一風変わった設定とアイディアが当時として新鮮でした。

 宇宙の事故で両親を失った少女ネネを父親がわりになって育てた宇宙飛行士マッキーは、美しく成長したネネへの秘かな思いを断ち切るため、金星探査船に乗り組み金星へ向かいます。やがて帰還した探査船アフロディテが金星から持ち帰ったのは、「時間」に影響を与える不思議な植物アリエル。飛行場に降りた探査船を覆った金星樹アリエルの空間にとらえられたマッキーは、探査船から降り立ってこちらに歩いて向かう姿のまま、動きが止って見えます。金星樹に覆われた空間の中では、時間の流れが極端に遅くなるのでした。

 金星樹の広がりを抑えるため、マッキーをその中に取り残したまま、透明のシールドでアリエルの周りを囲んだ基地の人々は、シールドの向こう側からこちらに走ってくる途中の、ほとんど止って見えるマッキーを助けるすべもなく見つめるだけです。

   彼は走る その26mの歩道を十秒とかからずに 
   何ごとが起こっているのか考えているヒマもなく 彼は走り終えるだろう
   だが 我々にとっては それは気の遠くなるような長い道のりだ
   およそ95年ー それがこちら側における彼の所要時間である

 同い年の婚約者・アーシーの気持ちを受け入れながら、やはり心の底ではマッキーを愛していたネネは、アーシーとの結婚前夜、彼にマッキーの世界に行きたいと告げます。アーシーは自分の感情を抑えて、ネネの本当の幸せを考え、ネネをマッキーの走るシールドの向こうへと送りだすのでした。

  きみはこの世界をすてていかなくちゃならない
  帰るころにはすべてが遠い過去になっているだろうから

 シールドの中に入ったネネは、向こうから走ってくるマッキーに向かって走り、二人は瞬時に出会って固く抱き合うのですが・・・・

  ほんとに動いてんですかね・・・?
  ここに配属されて五年になりますが、ずっとああやって抱き合ったまんまですよ。

 45年後、基地の司令官としてシールドの中の二人を見守る老人になったアーシーは、部下の青年が尋ねる言葉にこう答えます

  ああして出会うまでに40年ばかりかかってる ま 大目にみるんだね

  彼らは手をとりあって 残る道のりを一気にかけぬけるだろう
  それでも 帰りつくのに ゆうに30年はかかる

 多くのタイム・パラドックスもののラブストーリーが、愛し合う恋人どうしの悲劇的なすれ違いを描いているのに対して、こちらはむしろ、愛の絶頂の時間をほとんど人間の一生の時間と等しくしてしまっているところに驚きを覚えました。愛しあう恋人が駆け寄り出会い、歓喜のうちに固く抱き合い、手を取り合ってこちらに駆けて来る、そのほんの30秒に満たない至福の時間、それが永遠と同じであったら・・・・

 この時、タイム・パラドックスもののラブストーリーが、恋愛のある本質を言い当てていることに気付かされるのです。・・・・つまり、同じ時間を生きることこそが、愛し合う恋人どうしの条件であることを。

 愛の至福の時間を永遠のように感じるのか、あるいは、一瞬のことのように感じるか、一生の時間と等価と感じられるのか、二人だけが共有するその時間は、まさしく一炊の夢、であるのでした。

(3)ワン・ゼロ

 SFを少女漫画に取り入れたのは、最初はやはり手塚治虫など男性のカリスマ漫画家であったと思いますが、ファンタジーや性の問題をクローズアップした、いわゆる60ー70年代フェミニズムSFや、ニューウェーブSFなど、ソフトな感触のSFを取り入れたのは、萩尾望都、竹宮恵子といった24年組であったでしょう。

 日本の女性がリアルタイムで主としてアメリカのSFを読み込むようになった恐らく最初の世代が24年組のあたりだと推測します。萩尾望都や竹宮恵子の作品には、レイ・ブラッドベリのような文学的・感傷的SFファンタジーや、正統派未来小説SFのハインライン、アシモフ、そしてスペースオペラ、といった昔懐かしい古典的50年代、60年代SFへのノスタルジーが既に見えていました。

 佐藤史生の世代となると、そういった古典的SFのパターンはすべて網羅したうえで、近未来SF,
サイバーパンクまで取り入れてしまっていました。彼女の作品はほとんどがSFですが、タイムパラドックスから近未来もの、ファンタジー、第二文明もの、ミュータント・テーマなどなど、古典的プロットの本歌取りが自由自在になされている感じがします。逆にいえば、そういったSFの古典の知識ベースを共有していない読者には、少々とっつきにくい作品傾向だったかもしれません。

 「ワン・ゼロ」はまさしく近未来サイバーパンクの世界そのもので、「マニアック」というスーパーコンピュータによる神探しのプロジェクトを描いています。これがあのエニアックをひとひねりしたネーミングであることは一目瞭然で言うまでもないことですが、今は既に過去になった1998年という近未来を舞台にしたこのストーリーが80年代にできていて、ちょうどあのカルト教団の事件と妙に一致するような、予言的?内容だったことが、今思い出すと不気味な感じもしてきます。

 眼鏡をかけてクールに物事を突き放して見る一見秀才風の少年、いわゆるオタクが主人公になっている少女漫画、というのも、私の知る限りにおいては当時として珍しく、脇役としてなら古典的キャラクターだったこのタイプを、少女漫画のヒーローにできるほど身近に感じられるようになった女性の最初の世代は、やはり佐藤史生のあたりではないか、と思っています。オタクのキャラクターは、それまでまずヒロインの恋愛の相手にはなりえなかったので(何しろ何ごとも傍観者になって、現実を相対化することこそ彼等の役割なので)、ヒロインの女の子のキャラクターがお転婆で頭の回転の速いしっかり者、という設定の佐藤史生の漫画の世界ででもなければ、決してリアリティを持ち得なかったでしょう。

 

 



 

(4)夢みる惑星

 「夢みる惑星」は、古代文明もののファンタジー長篇で、佐藤史生の代表作の一つといえるでしょう。はるか古代、翼竜に乗り空を飛ぶ部族の作った都アスカンタを舞台に、王家の王子・王女、神官、芸人、戦士たちが織りなすドラマは、たとえばル・グインなどのファンタジーSFを読んで育った私のような読者にとっては自然に入りやすい世界でした。

 この作品を描いていた頃には、佐藤史生の絵の硬さがだいぶ取れてきて、初期の頃とは目に見えてキャラクターが描き分けられ、微妙な表情も絵で伝えられるようになっている感じがしました。相変わらず背景は真っ白だったりするコマが多かったのですが、ファンタジーの世界に素直に入り込めるようなタイプの読者にとっては、あまり細密な描写は却って自分の想像力を働かせて楽しむ邪魔になるので、キャラクターの魅力さえ出ていれば、あとは十分に空想の余地を残してくれて、技術的にはへたうまなぐらいの方がむしろ愛着が湧くものなのです。もっとも、これは一般の多くの人にはなかなか理解されない感覚だということを、私は恥ずかしながらだいぶ後になって知りましたが。

 主人公の銀の髪、銀の瞳の王子イリスは、戦士でもある国王モデスコと、その実の妹との不義の恋から生まれ、幻視者エル・ライジアによって育てられます。イリスは父王の死後、腹違いの弟タジオンに王位を譲り、数百年間廃止されていた精神的指導者・大神官としての任につきますが・・・・

 イリスの女性的な美貌ともの静かで控えめな性格は、父王そっくりの勇敢な戦士で直情型の弟ギデオンとは好対照をなしています。婚約者の姫がイリスに惹かれていることもあり、父王の愛情をイリスに独占されたと思っているギデオンは、ことあるごとに兄にライバル意識を燃やすのですが、イリスは挑発に乗ることはありません。意外にさめていて小さな策を弄するところもあるイリスを批判したり呆れたりしつつ、ギデオンはやはり兄の自分とは違った力を認めていて、心の底では肉親の愛情を抱いているのでした。

 イリスの側近の一人となる、黒い肌に金髪の戦士族ベニ・アスラの族長の息子カラ、暗殺者モロー一族の末裔で、イリス暗殺を依頼されたけれども逆に彼に救われ従者となる寡黙な青年ゲイル、幻視能力を持つしっかり者の舞い姫シリンなど、魅力的な登場人物が配されて、ストーリーはアスカンタに迫る地殻変動による破滅を予測し、そこから人々を救うために遷都を敢行しようとするイリスと、対立する人びととの葛藤、といった大きなテーマにフォーカスしていくのです。



 

 
 

 

 

 

(5)一角獣の森で

 ミュータント・テーマは、古典的SFの定番テーマの一つですが、70年代少女漫画にはこれを取り入れたものがよくありました。竹宮恵子の「地球へ・・・」などはその代表的なもの。佐藤史生は、ミュータント・テーマSFのスタンダードなプロットに自在にひねりを加えて、その奇想に目を見はらされる時があります。

 「一角獣の森で」は、破壊能力を持つために人間に追われるミュータント・シーヴァを追跡して彼の隠れる古い屋敷に潜入した女性ハンター・メリージェンが、瀕死の重傷を負い死を覚悟したシーヴァの願いで最後の一週間を二人きりで過ごすうち、敵であった彼にいつしか惹かれていく、というストーリーです。

 メリージェンはミュータントの起こした事故で弟が植物状態になり、その莫大な治療費を払うためにミュータント狩りをしているという事情があり、ミュータントであるシーヴァは憎むべき敵なのですが、彼が危険でどう猛なミュータントのイメージとはかけ離れて繊細でもの静か、女性的な美貌でユーモアセンスさえ持っていて、子供の頃から人間に追われ続け、緊張と孤独に満ちた逃亡生活を送っていたことを知り、共感さえ覚えるようになります。

 「え・・・ああ そのサディスティックな服ねえ どうも気になって・・・着がえてくれないかなア」
 「ないわよ着がえなんて!」
 「あるよ 母の服だけど衣装ダンスにたくさん すきなのを選びたまえ」
 「そんなの約束しなかったわ!」
 「そうモロにハンターハンターしていられたんじゃこっちの心臓に悪いんだよ」
 
 こんなやりとりもおかしく、シーヴァのひとときの恋人役になったメリージェンは、戦闘用の服を着替えてレースやリボンのついたフェミニンな服を着て、最初は居心地の悪さや照れくささを感じつつも、やがて本気で女性として彼を愛するようになる。既に彼を捕える気持ちをなくしたメリージェンは、彼に逃げるよう勧める
のですが、シーヴァは驚くべき告白をします。

  ただ逃げても仕方がないんだ 結局大切なのはぼく自身じゃない
  管理局が血まなこでまっ殺を計り ぼくが必死で守ろうとしてきたものの本質は つまりーぼくの生命そのもの ぼくの遺伝子に刷りこまれたぼくの種だ
  それさえこの世にのこせばー

  きみが追ってきたとき 一つの希望が生まれたんだ
  きみならそれを逃がすことができる ぼくの子孫として
  未来へー

 メリージェンは彼の本心を知り、その気持ちを受け入れて、彼の子供をひそかに産み育てる決心をするのでした。

 シーヴァは断種され脳手術を受けて全ての記憶を失いますが、メリージェンは息子と草原で戯れながらこう彼に語りかけます。

  わたしがほんとうにあなたにあげたかったものは
  わたしの心 わたしの心に呼びさまされた愛です

  それを呼びさましたのは他ならぬあなた自身だということ
  何にもかえがたく大切なのはあなた自身だということ

  シーヴァ もうだれも なにも あなたに追いつけないわ

 この哀感と不思議な明るさに満ちたエンディングは、ミュータント・テーマのこの種のSFにありがちなパセティックな、時には独善的にさえ見える悲劇性を薄めて、いい意味での女性的な感覚が感じられ、私にとって忘れられない作品のひとつとなっています。




  

  

 

(6)星の丘より

 ミュータント・テーマの変種?の一つとして、「星の丘より」という作品がありますが、こちらは人類こそがミュータントだった、という逆転の発想。それ自体はSFでは珍しくないテーマなのですが、当時の(1977)少女漫画としては瞠目のアイディアでした。

 太古の太陽系第四惑星、つまり火星の王国に、一人の王子が生まれます。彼は火星の人間がみな備えている心話(テレパシー)の能力が欠落したミュータントでした。テレパシーの通じない、寿命の短いミュータントが次々と生まれるようになり、火星では社会問題になっていたところ、ついに王家にもミュータントの赤ん坊が産まれてしまったのです。

 「どうしてこんなにお泣きになりますの?」
   テレパシーが届かない王子のおもり役の乳母が困惑して宰相に尋ねます。
 「不安なのだよ テレパシーがないということは孤立無援ということだ
  父母のいつくしみも仲間のはげましもとどかない
  ひとりひとりがばらばらに切りはなされ みな孤独なのだ」
 「一生 そうして生きるのですか? 一生不安と孤独のなかで
  なんておそろしいのでしょう 
  それでは寿命の短いのはせめてもの救いですわ」

 それでもノーマル(正常人、つまりテレパシーの通じる人々)の中で慈しみ育てられた王子は健康で感性豊かな少年になり、やがて衰退する火星を捨てて地球に移住しようとする2万人のミュータントたちの統率者としての役割を期待されるようになります。

 ミュータントたちはテレパシーに頼れないぶん、科学を発達させ、地球移住の計画をたてていたのでした。火星の文明は衰退していきますが、となりの星、美しい青い地球で生きてゆくであろう子孫たちーミュータントの移住者に、ノーマルの火星人たちは未来への希望を託すのでした。そして、彼らミュータントこそが、今の人類の祖先となったのです。

 人類もまた、火星においてはミュータントであった、という、ノーマルの基準の相対化、テレパシーが通じる、つまり言葉なしでも心の通じ合う、乳児期の母子関係のような共同体が、やがて一人一人が孤立し切り離された、心を通じ合うことの難しい人々の集団となっていく、というストーリーも、たとえば子供が大人になっていく過程を象徴するように読むこともできます。孤独こそが人類の人類たる最初の特性であった、というのも、何やら象徴的な気がして、少女漫画の閉ざされた世界がやがてより一般化してゆく節目の時代を映しだしていたようにも思うのですが、そこまでは私の読み過ぎかもしれませんね。



 



            

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