(1)奔馬

 もうだいぶ前の1980年代半ばごろになりますが、一時期、イギリスの大学町に長期間滞在して英語学校に通っていたことがあります。日本人の女の子の友人の一人がアパート(フラットという)をイギリス人2人のルームメイトと共同で借りていて、それぞれ一部屋ずつ使い、リビングやキッチンは共同、という、日本から見たら、独身の二十歳そこそこの女の子としては恵まれた住宅事情でした。(しかも、一か月の家賃が当時の日本円でも1万円ちょっと!)

 一部屋がだいたい12帖ぶんぐらいの広さはあったので、一応若い女の子3人で借りていたことになっていたけれども、他の2人のイギリス人の女の子は、どちらもそれぞれ自分の部屋に彼氏が一緒に住んでいました。そのうちの一人は、30歳ぐらいのセカンドシングルの女の子で、彼氏は22歳の失業中の男の子。長距離トラックの運転手をしていたけれども、失業した、ということで、彼女がハンバーガー店で働いて二人の生活を支えていました。ボブというその彼は、当時の日本人の同じ年頃の失業中の男の子とは全然違って、別に焦りもせず、ゆうゆう、堂々と、日がな一日テラスでひなたぼっこしながら、図書館で借りてきた本を次々に読破していました。

 ボブはシャイで優しい性格で、眼鏡をかけていて、おとなしい人だったのですが、ある日私に、「今、日本の小説を読んでるんだ」と、大きなハードカバーの本を見せてくれました。その表紙には、『Runnaway horses by Yukio Mishima』
の文字が・・・「ミシマを知ってるか」と聞くので、「もちろん」と、しばらく不自由な英語でその話をしていた覚えがあります。

ボブが読んでいたのは、三島由紀夫『豊穣の海』第二部の『奔馬』でした。四部作の中でも、やはり、武士道の話や少年やハラキリの話が出てくる、この第二部はこっちの人たちにはインパクトが強いのかなあ、などと思ったりした私です(むろん一つだけの例では断定できませんが)。三島の英訳本はその大学町の大きな書店ではよく見かけましたが、『仮面の告白』『金閣寺』あたり、能面をカバー写真にして、バックは黒、といった装丁を思い出します。



 

(2)春の雪

 三島由紀夫の遺作『豊穣の海』のことは、中学生の頃からよく聞いていたのですが、一応ざっと読んだのが高校生の時。第一部『春の雪』第二部『奔馬』第三部『暁の寺』と、それぞれ簡単に言えばソフト、ハード、エキゾチック、と、毎回全く雰囲気が違っていました。一部ごとに主人公が死んでしまい、次の部の主人公が前の主人公の生まれ変わりである、という、リインカーネーション、輪廻転生がテーマで、狂言回しとなるのが、第一部でかなわぬ恋のため亡くなる若者の親友・本多という人物です。

 もちろん、本多は最初は主人公と同じ若者として登場するのだけれども、次の主人公が彼の前に現れるまで時間が経過するので、一部ごとに年齢を重ねていく。第四部では老人になっています。彼はストーリーにはほとんど影響を与えず、原則として目撃者・証言者の立場であるところが、たとえば能のワキのような役割といえるでしょう。

 この作品にはベースとなる古典がある、とも指摘されていました。平安物語文学の『浜松中納言物語』です。やはり輪廻転生が扱われていること、幻想的な内容であること、などなど、三島への影響について、いろいろな人からその後も聞かされたものです。

 再度私が読み返したのは、20代半ばになってからのことでしたが、ちょうど肉親の死にあった直後で、ある種危険なまでのイメージ喚起力のある人工リアルの世界に、ぞくぞくするほどにはまり込んでしまいました。『豊穣の海』の世界は、三島の作品のうちでも特に徹底して作りものの、がっしり固くて恐ろしいほど美しく、それなのにはかない、近くに見えるのに決して手に触れることのできない、空中の庭園のようなものです。

 しかも、ストーリーが進むうちに、だんだんと枯渇していく感じ、庭園を埋め尽くして咲き乱れていた花が萎れ、廃墟と化していくような、総毛立つほどに空虚な感覚を覚えました。この漆黒のニヒリズムを、たとえば欧米の学者さんたちならば「日本的ニヒリズム」と呼んで、その典型例のように論じるのかもしれませんが・・・

(3)暁の寺

 『豊穣の海』の主人公は、最初の『春の雪』では恋のために死ぬ華族の青年・清顕で、この第一部は優雅で哀しい王朝の恋物語を思わせる、女性的な文体と感覚ながら、構成は最も硬く完璧にできている作品です。まさしく春の雪のごとく、花びらのようにひらひらと舞い落ちながら、決して降り積もることなく、地面に落ちると同時に淡く消え行く、冷たい氷の結晶のような物語です。主人公もまた、プライド高く気難しい、自己愛の強い美青年でありながら、あっけなく失恋に傷付いて若くして病死してしまう。

 第二部では反乱軍に加わり最後は切腹して果てる少年が主人公。やはりピュアで強烈な印象を残しながら、奇妙に実在感の薄い少年は、水平線に浮かぶ日輪の視覚イメージを網膜に焼きつけながら死んでゆく。このシーンにも、たとえば能にある『弱法師』の盲目の主人公が、幻覚としてありありと思い浮かべる光景が重なってきます。

 第三部の主人公のみ、女性として生まれかわってきます。しかも、タイ王国の姫であるという設定。題名になっている『暁の寺』とは、タイ・バンコクにあるエメラルド寺院のことだと言われます。私はタイに旅行した際、三島がいつもタイに来るたびに滞在していたというあの世界有数のリゾートホテル・オリエンタルのテラスから、チャオプラヤ河の向こう岸に見えるエメラルド寺院を眺めてみましたが、夕日に輝くその神々しいまでの姿というものは、タイミングが合わず見られませんでした。

 4部作4人の主人公のすべてが、失恋したり同性愛傾向があったりして、若くして亡くなってしまうのですが、彼等が本当に最初の主人公の生まれかわりであったかどうかは、狂言回しの本多にさえも確信の持てないことなのです。ただ、最初の主人公である親友は、本多にこう約束したのでした。「また会おう」と・・・・。

 最後の主人公も本多に先立っていなくなってしまうと、老人となった本多は、若き日の親友清顕の死の遠因となった恋人を訪ね、彼女のいる尼寺を訪ねます。美しい老婦人の尼僧となった彼女は、そのような人はおりませんでした、と、最後に答え、まるで今までの本多の一生に見た親友とその生まれかわりの3人に関するすべてが夢であったかのように、物語は終わります。すっかり老人になった本多を残して・・・・。こういった構成も、夢幻能を思い出すところです。

 『豊穣の海』を書く際に、三島は仏教の唯識の思想に傾倒していたといいますが、この夢とリアルの逆転の感覚は、私などには危険なぐらいに魅惑的で、うっかりはまりこんだらもう戻って来れないような、あまりに心地よい恐さ、であったのでした。しばらく夢うつつの境地から抜けられなかったのは、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだ後と同様でありました。『豊穣の海』は、私に読書の醍醐味ともいうべき何かを、確かに味あわせてくれた作品の一つです。





 

 

 



            

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