(1)南島譚

 1941年、昭和16年7月のこと、ミクロネシア諸島のパラオで、2人の日本人の芸術家が出会いました。当時41歳だった、画家・彫刻家で民族誌家でもある土方久功と、彼より9歳年下の32歳で、元横浜高等女学校国語教師、南洋庁の役人となり赴任してきた、のちに小説家として有名になる中島敦です。

 この年の12月、日本軍がハワイの真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入するという、まさに大戦前夜。やがて戦場となるミクロネシアの島々ですが、1919年、第一次世界大戦後のベルサイユ条約により、以前ドイツ領だったミクロネシアは日本の委任統治領となり、それ以後パラオ諸島コロールに「南洋庁」が置かれて南洋統治政策が進められていました。2人はこの南洋庁において、それぞれ物産陳列所嘱託(土方)、国語教科書編集書記(中島)という立場で出会ったわけです。

 土方久功(ひじかた・ひさかつ1900〜1977)は、東京小石川で軍人の父久路の次男として生まれ育った人で、土方家はもと土佐藩士で伯爵家の家柄、久功の2歳年上の従兄は、あの築地小劇場の創始者土方与志という恵まれた環境でした。しかし10代後半に父の死にあい、更に結核になるなどした久功は、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、画家・彫刻家の道に足を踏み入れることになります。彼の非写実的な作風は当時の彫刻界では到底認められず、母が亡くなったこともあって、28歳の1929年3月、前々からの憧れだった南洋パラオへとひとり旅立ったのでした。

 とりあえず南洋庁嘱託の職を得た久功は、パラオ諸島を題材にしたナイーブでのびのびとした絵や彫刻の制作、更に民族学調査に専心し、1942年、中島敦と共に太平洋戦争の始まったパラオから帰国するまで、13年をこの南の島々で過ごしたのでした。彼が「日本のゴーギャン」と一部で呼ばれるのは、そういった経歴からでしょう。

 

 

(2)青蜥蜴の夢

 いっぽう、中島敦(1909〜1042)は、やはり東京生まれで、父方は漢学者の家系でした。1933年に東京大学の国文科を卒業後、横浜高等女学校の国語の教師になりますが、1941年に女学校を退職し、パラオに南洋庁の役人としての職を得て単身赴任したのは、持病の喘息が悪化して暖かい土地への転地療養を必要としたためでした。もう一つはもちろん生活のためで、そのあたりの事情は友人深田久弥に宛てた手紙に記されています。

 2人は南洋庁で出会って、9歳の年齢差も関係なくたちまち意気投合します。当時の土方はお役所の嘱託であったにもかかわらず、本心は役人臭さが嫌いで、いささか浮き世離れした熱帯生物研究所の若い研究者たちとばかり付き合っていたとのこと。また、中島は、南洋庁のキャリアの同僚たちから見れば、途中から入ってきたくせに大学出ということで高い給料を取る生意気な若いやつ、ということで反感を持たれ職場で孤立していました。生来脆弱な敦は、パラオに着いてすぐデング熱など風土病に罹りひとり苦悶し、教科書編纂の調査のため南洋の小学校を視察する旅に出るのですが、その船出の日にも、同僚が誰ひとりとして見送りに来ないという有り様。そのことを敦はかなり赤裸々に日記に書いています。ともあれ、その土地に珍しい芸術家肌の日本人二人がお互いに親近感を持ち合ったのは当然のことだったでしょう。

 気楽な付き合いのできる土方の家に毎晩のように入り浸った敦は、若い生物学者たちをまじえて無駄話を楽しみ、慣れない土地での家族から一人離れた生活のストレスを解消します。土方も、敦の博覧強記ぶりや才能を見抜いて年令を越えた尊敬の念を持つようになりました。やがて土方は敦に自分の日記や草稿を自由に読むことを許して、そこに記録されたさまざまな南島の伝説や奇譚から題材を得た敦は『ナポレオン』『夫婦』などの短編を書くことになります。

(3)幸福

 中島敦が残したいわゆる南島ものの中に、『幸福』という印象深い短編があります。1942年夏に書かれたと推定されるこの作品は、南洋オルガンワル島の古伝説という設定になっています。

 この島に島で一番貧乏で第一長老の下男として仕えていた男がいて、長老は彼を酷使していましたが、夜になると、長老の夢の中では立場が逆転して下男となり、昼間使っている下男にこき使われる苦しみを味わいます。下男は昼間は汗だくで長老に怒鳴られていたけれども、夢の中では自分が第一長老なので、べつだんその生活を苦しいとも思わなかったのでした。長老はこの夢に耐えかねてやがて病気になり、下男を呼びつけるけれども、夢の中での自分を思い出し却っておびえてしまう。長老は下男に自分の夢の苦しみを告白する、というストーリーです。

 たとえば中国の「胡蝶の夢」などの古譚をも思い出させるような、夢と現実の相互逆転可能な関係性の話で、物質的満足よりも精神的満足を人生の中で重視する、という中島文学に通底するテーマが短い物語の中に凝縮しています。現実よりも夢の世界の方が人間の人生を豊かにし、満足を大きくする、という考えは、非常に古典的なもので、その意味で決して珍しいものではありませんが、あまりにも夢の世界のウェイトが大きく、鮮やかでリアリティがあり、バランスを欠いている時、そういう人やその人の言説、つくり出すものを見る人間は不安をかきたてられるところがありますね。

 こういうものを見てしまって、こういう風に現実をある意味見切ってしまった人はどうなってしまうのか・・・・ゴーギャンにせよ、中島敦のこの作品に大きな影響を及ぼした土方にせよ、また、言ってしまうならば、そういったある種のタイプの人間たちー アーチストなどにはみな多かれ少なかれそういう傾向はあるのですがー は、たとえばゴーギャンのように故郷から遠く離れたタヒチで現実に破れ熱病に倒れたりするのでしょうか。

 中島敦も、この後残された命は1年ちょっとしかありませんでした。彼は土方と共に次の年の3月に日本に帰国し、現実=肉体の限界、 と時間を争うようにしながら憑かれたように書き続け、12月半ばに33年の生涯を終えます。ですから、彼が小説家として一般に知られるようになったのは、彼が亡くなってからのことなのです。現実=残された時間 との競争と戦いに辛うじて勝利して残された作品が、文庫版の全集にして3巻ぶんあります。

(4)南洋日記

 中島敦の遺稿の中には、日記および書簡類がありますが、その大部分が1941年から1942年の南洋滞在・旅行に際して書かれたものです。日記は1941年(昭和16年)9月10日から昭和17年2月21日までの、ちょうど南洋滞在期間中の日付けのもの、いわゆる「南洋日記」のみが残っています。

  蠍座ゆ銀河流るるひと所黒き影あり椰子の葉の影
 この和歌で始まる日記の、最初の9月10水曜日、コロール、の記録のある日記に、最初に出てくる名前が「土方氏」です。「午後、土方氏、渡辺氏、久保田氏等とアルミズ島民部落を訪う。・・・(以下略)」 敦は、土方を南洋においては唯一話の合う友人と考え、一緒に出張したり旅をする機会を大いに楽しんだのでした。既に10年以上を島民の生活に溶け込んで暮らし、パラオ語にも堪能な土方が島民と親しげに話すのを、感嘆しうらやまし気に見ていたという中島敦。

 敦はパラオ諸島の島々の小学校を訪ねる旅を続けていくうち、島民の小学校向けの国語(日本語)教科書編纂という自分の仕事に無意味さを感じるようになったことを、東京にいる妻たかへの11月9日付けの手紙で赤裸々に述べています。

 「今度旅行して見て、土人(島民)の教科書編纂という仕事の、無意味さがはっきり判ってきた。土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある、教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ。・・・」 土方と同様、敦も子供のような無垢さを持った島民のほうにこそ、よほど日本人仲間よりは親しみや好感を持っていて、南洋庁の役人としては持ってはいけない、島民の側の視点を持ち、本当に彼らを幸せにするのは教科書などではない、と、すぐに現実を見抜いてしまったのでした。しかし、こういう本音は、パラオにおいては土方とのプライベートな会話や、あるいは家族にあてた手紙の中でぐらいしか吐露されることがなかったのは当然のことでしょう。

 「・・・このような時世では、チッポケな個人の理想など、もっと大きな世界の変動のために何時みじめにひっくり返されるか判らないからです、」
 父に宛てた手紙の中で敦がこう書いたのは9月13日、この3ヶ月後には太平洋戦争が勃発することになります。
  
     *引用 「中島敦全集2」ちくま文庫刊

(5)かめれおん日記

 中島敦の南洋からの書簡の中には、当時国民学校(小学校)2年生であった長男桓(たけし)氏に宛てたものが50通ほどあります。日記は文語文体、大人向けの書簡は普通に話すような口語体で書かれていますが、息子向けのものはひらがなを多用し、簡単な絵まで添えるなどして、当然ながら相手により相当書き方が変わっています。

 この息子に宛てた手紙を読んでいると、実に「普通のお父さん」であるのに驚かされます。「おかあちゃんのいうことをよくきいて」と書いたり、絵はがきの風物を説明したり、子供の文章の間違いを直したり。少しばかり古風な感じはするとはいえ、いまどきだってそこら中にいてもおかしくなさそうな、子供を思う「お父ちゃん」そのものです。

 「おとうちゃんのひるごはんは、毎日バナナ十二本だよ。うらやましいだろう。」(7/8)
 「夏休のしゅくだいは、ちゃんとやってるかい。なまけちゃだめだよ。」(8/6)
 「桓はバナナのなり かた をしらないだろう。
   こんなふうに、ちょっとさかさま みたいに なるんだよ。」(7/?)

 小説の文体は漢文の影響の見られる、古典的な硬質の格調高さが定評ある中島敦の文章も、個人的な書簡を読んでいると、たとえば自分の父親の話を聞いているような、昔のお父さんの普通の日本語が流れ出してくる感じがするし、戦時中の緊迫した時代だというイメージだったこの時に生きていた人たちの日常の感覚が、今とそれほどかけ離れたものでもないところにまた驚くこともあります。

 「 こんやは、まん月。
  海岸へさんぽに行くと、とてもきれいなんだけれど、ぼくはまだ少しびょうきなので行かれません。
  南洋の月は、東京や横浜の月よりも、ずっとずっと明るいのです。」
                  (9月6日の夜)



 

(6)光と風と夢

 サモア島で死んだ英国作家、ロバート・ルイス・スティブンソンの南の島での最期を描いた長篇『光と風と夢』は、中島敦がパラオ行きを決行する以前に完成していた作品で、パラオに出発する直前の6月、鎌倉の友人深田久弥を訪ねて、中国ものの『古譚』の草稿とともに託していた作品でした。『光と風と夢』は、深田の仲介で「文学界」に掲載されることになり、芥川賞候補ともなって、これが彼のデビュー作となります。しかし、その年の終わりにはもう敦は喘息の悪化で亡くなってしまうのですから・・・・せめて、自分で校正をすることのできた本が2冊あっただけでも幸いというべきでしょうか。

 当時、芥川賞の選考委員の間では、この無名の新人の作品は「奇を衒う面白みはあるが到底芥川賞に値するものとは思えない」と、ほとんど無視されていたようです。『古譚』の中には、のちに国語教科書に載せられて広く知られることになる、あの『山月記』も含まれていたのですが・・・。

 ともあれ、『光と風と夢』を書いた時点では、彼はまだ現実の南洋を体験していなかったわけで、サモア島のこともスティブンソンについても、徹底して資料を読み込み、想像力で補って書かれた作品ということです。それを考えると、ほとんど想像力だけでこれだけのリアリティを出した中島の筆力に感嘆もさせられる一方、この作品は、当時の日本人が漠然と抱いていた「南洋」への憧憬が随所に表れているいいサンプルになる、と考えることもできるのではないでしょうか。

 『宝島』や『ジキルとハイド』で有名なスティブンソンは、ポリネシアに親しんだ作家としても知られる存在です。英国では、サマセット・モームが、ゴーギャンをモデルとした小説『月と六ペンス』を書いていますが、中島の『光と風と夢』と読み比べた時、その違いにいろいろと気付かされます。こんなアナロジーを言い立てるのは、根拠が薄くて申し訳ないのですが、ちょうどゴーギャンと土方久功の絵の性格の違いとも似ているように私には直感されます。・・・つまり、ひとことで言えば、土方の絵も中島の小説も、ゴーギャン、モームのそれぞれの作品に比べて、よりおおらかさや素朴さ、のんびりしたユーモアが感じられる、ということです。島民に対する距離感や視線がよりソフトな感じがするのです。ゴーギャンやモームの作品から伝わる、熱帯でありながら凍り付くような、ひりひりする孤独感、島民との距離感が日本人の場合には感じられない。ある種の余裕がある、という気がしました。これはなぜなのでしょうか。やはり、日本人の方が島民と肌合い的に近いから、ということがあるのでしょうか・・・

 『光と風と夢』で、サモア島で陽気で純朴な島民たちに溶け込み、「ツシタラ」(酋長)と親しまれるスティーブンソンのユーモラスな人物造型は、モームの描くゴーギャンとは正反対というぐらい違っています。孤独な最期を迎えるゴーギャンの救いのない悲劇性と反して、スティーブンソンはごく日常的に、間抜けな失敗でもしたように頭痛に襲われて倒れ、その死を西欧人やサモア人の友人たちが惜しみ島の土に埋める。酒のみ仲間だった陽気な老酋長の一人が、赤銅色の肌にひとすじの涙を流し、こう別れの言葉をかけるラストシーンも、素朴な暖かみさえ感じられたのが不思議でした。

「トファ!(眠れ!) ツシタラ。」




 



            

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